「外人に対する嫌悪感と、ゴキブリ」

このブログなんかいつも

私の愚痴みたい 笑

 

まあでも、いいか。

 

昨日はすごい体験をしました

これもこれも、大学で。

 

 

 

人権教育論という授業で。

 

 

授業の単位を取得するのに、

最終プロジェクトとして

人権に関するビデオを作らないといけないんですよ。

 

テーマは色々あって、

ジェンダーとか外国人差別とか部落差別とか

ありがちなテーマがずらっとあったわけで

 

私のブログ読んだことある人はお分かりの通り

外国人に対するステレオタイプがあまりお好きでない

 

 

しかも、自分が「外国人」なので

 

一番自分に近いテーマとして

外国人についてビデオ作りたいなと思って

 

同じく外国人をテーマにしたい学生とチームになって

ディスカッションを始めたわけですよ。

 

 

みんながもともと書いてきたプリントを元に

どういうことについてビデオにしたいのか

その根拠は?

 

とか

 

まあ、可愛らしいありがちなタスク

 

多分

 

共生・リスペクト・共存

 

みたいなキーワードを使って

丸く収めてみんなハッピー

 

って感じで終わると思うじゃないですか

 

それが、終わらないんですよ。

 

7人グループの中の一人が

 

「俺宗教とかまじわけわからんねん。」

っていったんですね。

 

まあ、強気な態度でそれを言い出したわけです

みんなスルーしたわけです

 

あ、そうやねんな、おけ

って感じで

 

 

ワークシートの続きに、

その根拠や理由を述べなさい。

 

ってあったので

 

なんとなく

 

「なんでなん」

って聞いてみると

 

ハラールとかあるやん。あれもわけわからんし、

例えば日本に住むなら、日本的にしないといけないと思う。

あれやな、郷に住むなら、郷に従えってやつやな」

 

「・・・」

みんなの顔がこわばりました。

 

 

その国にいるなら、その国の文化を尊重しな、あかん。

それはわかる。

 

ただ、郷に住むなら郷に従えっていうのは、

同化を強要して、

同化しないなら排除して

 

何か聞いてて胸騒ぎがするような

 

「そうやで。俺、外人嫌いやし。みたらムッとするし」

 

人間学系の社会学系の哲学系の人権教育論を受けている生徒から出る言葉

 

 

授業中に、

散々、

 

在日コリアンの、

外国人ルーツを持つ人の、

宗教や文化の多様な人々の

人権を散々考えてきて、

 

結局それかい。

 

 

グループの人々の目ん玉は飛び出ました。いや、ガチで。

 

どれだけグループの人が、

それはおかしいんじゃない?

 

先生も、

それはおかしいんじゃない?

って言っても

 

自分を曲げず(?!)

 

「これは俺の感情やし、個人的な意見やし、

 

             別に良くない?」

 

「嫌いなもんは嫌いやし、差別的かも知らんけど、俺はこういう考え方やねん」

 

「あ、わかった。みんなゴキブリ嫌いやん?でもゴキブリって別に害ないし、けど気持ち悪いし好きになれへんやんか。そんな感じやで」

 

ってうっすら微笑みながら

 

外国人に対する嫌悪は、

ゴキブリ嫌いなんと一緒やん、

でまとめた彼でした。

 

泣けばいいのか、笑えばいいのか。

 

 

 

日本に住んでる私はゴキブリですか。

 

 

 

っていうか、

外国人を目の前によく口から出てくるなあ

「外人が嫌い。外人はゴキブリ。」って

 

 

今まで日本に22年間住み続けて

レイシズムを体験したことはほとんどなかったけど、

 

ああ、こういう気持ちになるねんな、

レイシズムって

 

 

自分が否定されたような、

この国に、存在したらだめなような、

この人の前に現れたら、いけないような

 

何を言っても理解してくれなくて、

自分をかばってくれるのは、自分だけで

 

本当に初めて体験する感情で

 

こんな感じ方ができるのか!っていうくらい

めでたいのか、めでたくないのか。

 

 

 

正直、

この記事の結論どうしようかな〜って考えても

あまりまとめられる気がしないけれど、

 

思ったのは、

 

差別感情って

誰もが持つ感情で、(大きいものから小さいものまで)

それはごくごく日常的であるということ。

 

〜人は好き、でも、

〜人は嫌い。

 

〜教はちょっと怖い。

 

あの人は嫌い、とか。

 

 

 

そんな感情はちらほらみんな持ってるんですよ。

差別感情は、

感情なので、

 

 

抑圧なんてできないし、

感じるものはしょうがない。

 

そういう意味では、

授業中に「個人的な感情」って言ったあの少年は正しいと思います。

 

ただ、いくら嫌いでも、

 

自分が正しくて、

自分が優っていて、

他人をリスペクトせずに、

他人の気持ちを考えずに、

 

なんでもかんでも自分の思ったことを口に出すことは、

よくない。

 

ただの傲慢なエスノセントリズムの現れ。

 

やばいこと言ってしまったら、

頑固になって主張するのではなく、

もうさっさと謝って口を閉じる。

 

 

 

感じることは、別にコントロールすることはできないし、

しなくてもいいけれど、

 

他人を理解しようとする努力くらいは、

するべきなんだと思う。

 

せめて、感情を出さずにポーカーフェイス。それくらい、できるやろ?

 

 

前も書いたかもしれないけれど、もう一度、

 

外国人・〜人

として認識する前に、

一人の「人間」として認識してあげる。

 

自分がされて嫌なことは、他人にしない。

 

基本ですよ。

 

 

 

余談:

 

人権教育論であんな発言した彼は、きっと単位落とすでしょう

(うふ)

 

 

 

 

 

 

ノーパンで過ごした1日/ 番外編

 

多分この記事をクリックしたあなたは、誤解しています。

 

決してセクシュアルな話ではありません、

残念でした。

 

それでも、

今日はノーパンで過ごした1日についてお話ししたいです。

 

プールに入ったんですけど、

水着でプールに行って着替えを持って行ったわけですよ。

 

プールで泳ぎ終わって、

着替える時にパンツを持ってきていないことに気づきました。

 

心の底から感じたことを言うと

人生でこんなに焦ったことありません。

パンツって365日22年間ずっとつけてきたものじゃないですか、

とりあず人前に出るときは必ず。

 

そのパンツを忘れたわけです。

 

いつも人前で活動している時は履くものとして

それがルールとして存在して、自分の習慣として存在して、

そんな重大なものを、私は持ってくるのを忘れたわけです。

 

 

家に取りに帰ることもできないし、

濡れている水着の上からジーパンを履きたくないし、

 

頭が真っ白になってしまいましたよ。

どうしようって。

 

 

私が下した決断は、

とりあえずパンツは諦めてジーパン履いて帰る

と言うようなものでした。

 

いや、こいつ何ゆうてんねん。って思ってるでしょう。

別にどうでもいいし、みたいな。

 

でも考えたことありますか?

 

そもそも私たちがパンツ(下着)に依存していると言うことを。

パンツが当たり前すぎて、無いのが不愉快で不便で変で気持ち悪くて

 

私はないです。

だってずっと履いてきたから。

履かないことなんてなかったから。

 

そもそも下着を着る理由とは何か、

みんなが履くものだから

と言う理由が挙げられるでしょう

 

でも履きたく無い人だっているし、

ノーパンにはまっている人もいるし、

 

ただ、パンツを履いていないだけで排除されてしまう。

 

みんなが履いているから

お前も履けよって。

 

履いてないお前は気持ち悪い、変人だ、って。

 

社会の秩序に従っていない部外者で、のけものにされてしまう。

 

今回はパンツを持ってくるのを忘れて

たまたまパンツを切り口に話したけど

 

 

何も考えずに行動していることって

なんで当たり前なのか、

 

その当たり前を実行できていない人たちが

排除されてまうのは本当に正当なのか。

 

どうなんでしょうね。

 

当たり前って本当に当たり前なんですかね。

そもそも当たり前ってなんですかね。

 

ノーパンって自己申告しないと

わからないことなのに、

ノーパンってわかった瞬間非難してしまう。

 

 

ノーパンで過ごした1日でしたが、

面白いなあと一人で感動しました。

考えさせられたことが多くありました。

 

こんな変な番外編な記事もありかな 笑

 

みなさんも、周りにある当たり前を見つめ直してみてください。

 

 

 

 

 

中身と外見の話

私のボキャブラリーの中に「定期的」という言葉はないようです。

 

どうも、こんにちは。

ようやく大学4年生になってしまいました。

 

一体四年間何をしてきたんだろう、と自分に問いかけてます。

何もしてないです。恥ずかしいです。

 

 

 

それはさておき、

大学初日にルンルンで授業を受けに行ってきました。

 

前から二列目に座って、教授が来るのを待っていたら

 

「この授業って英語じゃないよね?」

「え、そうなん?ちゃうやろ、普通に日本語やろ」

「でも、日本語やったら理解できるんかな?」

 

という会話が真後ろから聞こえてきました。

 

 

いや。まさか。

 

 

まさか私の真後ろで、

私が日本語を理解できるかどうかの、

ディベートを始めるわけがない、

 

と思いつつ、会話を聴き続けたら、

 

どうやら片方は、中国からの留学生のようで。

もう片方は、「普通の」日本人の学生でした。

 

「私は中国から来て〜」みたいな会話を少しした後に

 

やっぱり前に座っているあの金髪野郎は、

日本語の授業を取って

ちゃんと理解できるのかどうか不安で仕方がない様子でした。

 

後ろに振り向いて

 

「日本語話せますよ。」

 

って言いたかったです。すごく。

(めんどくさいのでやめました)

 

そこで私が不愉快に思ったことを言わせてください、

 

まず。

私がもし日本語を話せなくても、

その人の真後ろでそのような会話をすることはすごく(すごくすごく)

失礼なことだと思います。

 

 

次に、

私が留学生であると仮定しても、

多分授業を取る前に、

私は授業のシラバスを読んだ可能性が100パーセントに近い

少なくとも、日本語の授業であるということは認識している、

はず。

 

私は日本語が少しでも話せる、

理解できる、ということは3秒でわかる、

はず。

 

そして最後に、

 

中国からの留学生が日本語を話すことに対して全く抵抗がないのなら、

どうして白人である私が日本語を話せないと思ってしまうのだろう

 

 

私の真後ろで私の日本語の能力についてディベートするのはなんでかなあと、

頭を抱えてしまいました。

 

 

しょうがないでしょ〜、白人で日本語話せる人って少数やし、

日本生まれ日本育ちの白人なんてそんなにいないんだから〜

みたいなことを思う人も沢山いると思いますし、

実際に言われます。

 

 

でも、考えてみてください。

 

 

日本で生まれて、

日本で育って、

日本語を第一言語として使用して、

しかも自分は「日本人である」というアイデンティティが強い

なんならそこらへんの日本人より「日本らしい」私ですよ

そんな所に、

 

毎日、日本語ができない外国人扱いをされる。

 

どこに行っても。

 

日本語を話して、ビビられて逃げられる

日本語を話し続けても、英語で返事して来る

日本人だ、と言っても、「外国人」扱いをされる

 

自分の「ホーム」だと思っている場所で、

よそ者扱いをされる。

 

慣れてしまったようで、

やっぱりヒリヒリと傷口が痛む経験です。

 

 

少数にせよ、

私の他にこういう経験をした人はいます。

 

もちろん日本で生きていく中で

沢山の優しさに出会いました。

沢山、理解してくれる人、受け入れてくれる人もいます。

 

 

ただ、今回伝えたいのは

 

don't judge a book by its cover

人は見かけによらぬもの、

 

見た目だけではわからないこと、山ほどあります。

 

何においても外見だけで判断してしまうのではなく、

 

もっと新しい可能性にオープンでいる方が、

 

視野も広がるし、よっぽど楽しくなるのかな〜と

新学期早々考えました。

 

Sunshine x

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女が脱ぐと、客が来る

女の私が書くから、

 

どうせこいつは女だからな。

って言われるに違いない

 

けれど、女でも男でも言わないと始まらない問題はあって

より多くの人が声をあげて

問題提起/コントロバーシャルにしていくことで

 

少しでも現状を改善できるのではないか、と考えました。

 

続きを読む

親の離婚、子供の気持ち

寝付けないので、

書きます。

 

少し個人的なこと

(だけど多くの人が共感できること)

 

(でもあまり語られないこと)

 

 

親が離婚しました。

 

2016年9月に浮かび上がった話で

もう9月、10月、11月、12月、1月、2月

ずっと離婚のことを話しあう親をみて

 

いつ悲しくなくなるんだろう、

と思ってました。

 

明日はオフィシャルに「家族」が分解する日で

この日が来るのを

恐れていたけれど

それと同時に待ち望んでいました。

 

多分子供にとって親って崇拝するレベルだと思うんですよ

 

人間としてじゃなくて「親」として

今までずっとみてきた特別な存在で

 

そんな親の「人間」としての側面を見てしまうということが

「子供」にとってすごく辛いんだと思います。

 

今まで20年間一心同体として、見てきた両親の背中は

 

こんなたった一瞬で別のものになって

 

そしてずっと一つの「家族」が

個々人に分散していくのがたまらないくらいに

痛い

 

今まで三人で過ごしてきた20年間はまるで嘘みたいで

現実を受け止めることが

正直今でもできません。

 

だけれど多分、

そう思ってしまうのは子供のエゴで

 

結局どれだけ崇拝してきた「親」でも「家族」でも

結局は親も「人間」で、社会的に構築された秩序

 

離婚の率がどんどん上昇してきて

恋愛至上主義になっている上で

結婚なんて戦略っぽいことは本当に時代遅れ

 

多分「子供」はテレビとか本とかで読むような

完璧な家族のシナリオに憧れて

 

親の離婚の際に、

その架空のシナリオが崩れてしまうと悲しくなってしまうんです。

(私はそうでした)

 

とりあえず「家族」というものは様々な形があって

必ずしも血縁関係を必要としないし、

どんどんリキッド化している

 

オーソドックスな「家族」の形にとらわれる必要はないし、

離婚って悲しいことではなくて

むしろ(親にとっては)嬉しい出来事でも、あるのではないかな。

 

正直、

私の家庭で起こった離婚クロニクル 笑 は、

すごくストレスフルで、トラウマチックな出来事であるけど

 

見方を変えれば

気持ちだって180度変えれる

 

まあ、何が言いたいかって

・結婚制度自体多分古い

・離婚は悲しい出来事ではない(単なる子供のエゴと妄想)

・家族はいろんな形があって親−子でなる「家族」だけに頼らなくてもいい

 

そして、

日常で自分を囲んでる何気ない人、もの、いる場所

本当に全て感謝しなあかん、ほんまにマジで。

 

これから別居する私の親には、

一緒にいて幸せになれなかったことや、

一緒にいてできなかったことに挑戦して

是非2倍、3倍、幸せになってほしい

 

 

xx

 

 

 

 

 

 

質より量、より質

 
こないだNetflixでドキュメンタリーを見漁ってたんですよ。
 
そして
The True Cost
というドキュメンタリーに出会いました。
 
 
薄々気づいていたことではあったけれど
改めて映像で現状を見てしまうと、
反省せざるを得ませんでした。
 
 
への重度な依存が、
 
どれだけ
人に、
環境に、
ネガティブな影響を与えるのか。
 
特に学生にありがちだと思いますが、(違ったら失敬 笑)
私のクローゼットなんて
H&MとForever21とユニクロで完成していますよ。(No Shame)
 
買い物をしている時になんとなく
あー途上国の人々が搾取されてこの服はできてるんやろうなあ〜
なんて考えてる人は少なくて
 
むしろ
安ければ安いほどいい!!
いえーい
みたいな。
 
Tシャツ 300円!?
買うー。
 
ジーパン990円!?
なくてもいいけど買っとこかー!
 
だって安くて!!おしゃれ!!
変わっていくトレンドを追いかけて追いかけて追いかけて、、、
(トレンド追いかけてなくても質より量!)
 
そうやって
どんどん経営戦略にはめられて 笑
消費社会を促してしまう
 
という意味では(こういうことに思い当たりのある)私たちは
全員ギルティーなんじゃないかな、と。
 
 
で、ファストファッションの何が悪いのか。
 
上記にもちらっといっていますが
主に (だいたい)2つの観点から見ることができると思います。
 
 
まず環境への影響
 
人が行うことすべてが何かしら環境に影響しますが
 
ファストファッションは低価格が故に
買っては捨て買っては捨て
 
ものを大切にしようとする努力もほぼ皆無。
 
一回だけのために、
 
安かったからほつれても汚れてもいいや!
 
と服を買うノリがどんどん軽くなっていくのも倫理的な問題だと思います。
 
そして、この倫理的な問題が環境に繋がります。
 
ファッションのライフサイクルが短いことによって
家庭では不要な服で溢れかえってしまい
地球ではゴミが溢れかえってしまう
 
工場の周りの川は汚染されまくり
水の色じゃなくてもはやピンクっぽい川
 
これ以上説明はいらないでしょう?
 
 
2つ目は、
搾取の問題。
 
安いのには理由があるし、
それはクオリティが低いということもあるけれど
発展途上国の人々が搾取されているということ
 
(ナ○キとかも値段の割にはスエットショップとか搾取とかで有名ですけど、じゃあコストがもともと安い服を作る工場の環境は多分相当悪いって想像することができると思います)
 
低賃金、重労働、
工場も古くてヒビだらけ、安全環境なんて誰もチェックしない
2015年、2016年は

いくつかの工場が崩壊して、

いくつかの工場火災になって、

 

何百人、何千人もの人々が亡くなっています。

 

www.fashionsnap.com

 

 

おまけに散々働いて月給は7000円程度

 

こんな事件が幾つおこっても

 

消費者は服を買い続けて

政府は無関心

企業はとりあえず利潤追求

 

 

ここでミニマリズムの話ぶっ込みますけど

 

安い服を何枚も買って

これらに関与するのか

 

いいものを本当にお気に入りのものを買って

丁寧に、大切に使って

自分も気持ちよく、地球環境も、製造者もリスペクトして服を着るのか

 

(私自身も最近頑張ってファストファッションからクオリティの高いものや、フェアな環境で作られているものを調べて買おうとしている努力はしていますが、難しいです、移行期です)

 

まあ、

考えてみてください

 

質より量の時代、

量より質ですよ、やっぱり。

 

 

xx

 

 

 

いらないもの全部捨てた

こんばんは。

 

12月8日以降ブログ更新してなくて、

きっと3日坊主だな〜って思ってるであろうみなさん。

 

戻ってきました 笑

 

 

そして今日1日部屋を片付けていました。

自分でもびっくりゴミ袋5個 笑

 

だから今日はゴミについて語ろう、と思いました。

 

ゴミ袋5個といっても

「ゴミ」じゃなくて今までずっと貯めてきた「思い出の品」を捨てました。

 

高校のときに使ってた教科書

3年前にお気に入りだったセーター

ちょっと穴空いてるけど可愛いからなんとなくキープしてる靴下

天井にオーロラのマッピングをするプロジェクター「オーロラマスター」

(なんで5千円かけて買ったのか全くわからない)

大量の化粧用品

(質より量重視で、たくさんリップ持ってるのかっこいい!みたいな)

などなど

 

そんなこんなで

ずっと使うやろ!と思って取っておいたモノとか

もうこれなしじゃ生きていけない〜と思っていたモノとか

全部捨てました

正直生きていける、なくても

 

服は3分の1に減って、

ごちゃごちゃしたものも半分以上は処分

(ちなみにリサイクルできるものはリサイクルします。環境大事!)

 

 

ものへの執着って本当に怖い

いらないのに何かを思い出すことができるから

取っておくなんて、

 

思い出なんて心の中にそっとで十分

(十分じゃなかったら日記でも書いてください。)

ものがなかったら思い出すことのできない思い出なんていらない

 

結局そんな「思い出の品」も「ゴミ」です

どれだけ大切って思っても使わないんだったら結局ゴミ、不用品

 

快く捨てましょう。

 

人間は絶えず物質を体から排出します(本当に色々な形で)

悪いものを、

不要なものを出して、

体調を整えていきます。

 

生活も一緒。

 

自分の部屋から

いらないもの全部出したら

あらスッキリ

 

息苦しかった部屋もまじ爽快。

頭の回転も早くなる

一石二鳥

 

消費社会に乗せられて

どんどん新しいものを買ってしまう

いらないのに

新しいペンとかノートとか服とか電子機器とか車とか

 

どんどん購入して消費してもの足りなくなってもっと買って

 

それがどんどん家に溜まっていって

 

私も特にそうですが

今まで安かったら買っちゃえ〜

で山ほどものが増えてしまいました。

 

そんなあり方がどんどん嫌になって

2017年の目標はミニマリストになることです。

本当は私たちが思っている以上にものっていらない

 

ミニマリストになることで

いろんなメリットがあると思います。

 

それについては次のブログポストで(書くかも) 

 

xx